梨の歴史〜市川の梨について
【ナシ・梨・日本ナシ】
ナシの語源は不明。有りの実はナシを{無し}にかけ、忌み嫌って反対語のアリの名を付けたものです。 (日本ナシの栽培の起源)
梨は、世界においてニホンナシ・チュウゴクナシ・セイヨウナシの3系統に大別されます。日本ナシとはニホンヤマナシを基本とする品種群の総括的名称です。この基本種は中国大陸中部、朝鮮半島南部および、我が国中部以南に分布しています。しかし、これを改良して完全な品種群にしたのは、我が国のみです。
日本ナシは我が国原産の日本固有の果樹です。
幸水・豊水・秋月・新高・愛宕・二十世紀・かおり・あきづき他多数日本には多くの品種lが生まれては消えていきました。詳しくはこちらへ
菊地秋雄によれば、我が国に原生するナシ属から次の3種を上げています。
1.イワテヤマナシ(Pyrus aromatica Kikuchi et Nakai)岩手・青森・秋田
2.アオナシ(Pyrus hondoensis Nakai et Kikuchi)静岡・山梨・長野・群馬
3.ニホンヤマナシ(Pyrus serotina Rehder)日本中部以南・揚子江・朝鮮
これらは現在の栽培種の基本種だとしています。その中でもニホンヤマナシが現在栽培されている和ナシの中核をなす種だとしています。
田野寛一によれば、我が国における梨栽培の記録として最古のものは「日本書紀(720年)」持統天皇(693年)の章で、梨その他の草木を植えて五穀の助けにすることを薦めた記録があり、おそらく全国的な梨栽培は10世紀以前からであろうと考えられている。「三代実録(908年)」には「信濃の国から梨を、、」、また「延喜式(905〜928年)」には「甲斐の国から青梨子(アオナシ)を、、」献じた記録が残っている。
もっとも、この「青梨子」が現在のニホンナシと同系統の栽培品種であったか否かについては疑問があり、我が国の野生種の一つであるアオナシではないかとする説もある。そのため、食用にしたのは、そのはるか以前からだろうと推定しています。
(梨栽培の歴史)
恩田鉄弥によれば京都府綴喜郡では文治2年(1186年)に梨栽培を始めていたといいます。「書言字考節用集(1698年)」に寄れば肥前高来郡空閑(こが)に空閑(本名我鳥梨)の記載があり、さらに「和漢三才図会(1713年)」には、「梨は山中の果であるが人家の近くで煙の出る処によく結実する。その性質は寒さに抵抗力があるので北国に多く、奥州、津軽、羽州、秋田に産するものは他国より倍も大きく、その大なるものは周囲1尺4〜5寸、俗に犬殺と呼ぶ」とあります。そして18世紀の後半には早・中・晩生種に区分されています。
天明2年(1782年)に越後国蒲原郡萱場村の阿部源太夫という栽培家が「梨栄造育秘鑑」という書物を残していますが、それには早生種19・中生種19・晩生種56品種が記載されています。また品種の他に接ぎ木、栽植、土壌、肥料、棚仕立ての方法、剪定、果実の貯蔵などについても詳細な説明がされています。
明治以降のニホンナシの変遷のうえで特に注目されるのは、品質特に肉質の向上と早生種の出現です。ニホンナシの古い品種は殆どすべて晩生種で9〜10月の収穫期のものが多かったようです。明治年間には東京市場出荷を主とする千葉・神奈川両県において独乙、真鍮などを始め多くの早生種が発見され普及しました。また大正〜昭和にかけて民間および官庁育種が積極的に進められた結果、君塚早生・石井早生(市川市生まれ)・八雲・新水・雲井・幸水などの早生種が育成されました。
一方リンゴ・ミカンなどの生産量増加を主とする外部要因及び晩生品種の品質不良などの内部要因が関係して晩生品種は減少の一途をたどり、ニホンナシの収穫期間は8月〜9月の2ヶ月が主となり、全体としての出荷期間が前進したのが特徴です。
ニホンナシの品質の向上は特に肉質の面に認められます。江戸時代後期〜明治前半期の品種、晩六・江戸屋などに比べて大正時代に普及した真鍮・独乙・長十郎(1895年偶発実生として神奈川県川崎市の当麻長十郎の梨園にて発見)などは、いずれも果肉硬度が低く、また二十世紀(1898年偶発実生として千葉県松戸市の松戸覚之助宅にて発見命名された)はこれらの品種よりはるかに果肉硬度が低く、それ以前のニホンナシの中では画期的な肉質でした。
1970年代頃までは、長十郎と二十世紀主体の栽培体型が主に行われていました。その後ニホンナシの甘み不足が重要視され、菊水をはじめ、新水(1965年)・幸水(1959年)などが肉質の点で二十世紀に劣らず、果汁糖度もはるかに勝ることから、市場において高く評価されていきました。その後、豊水(1972年)が現れ、長十郎は豊水に替わり、市場において新水・幸水・豊水を三水と称して注目されました。そして幾多の新品種が現れて来ておりますが自然淘汰され、現在では幸水(早生種)・豊水(中生種)・新高(晩生種)を主体に市川市の梨園では栽培されております。
千葉の梨栽培は「市川の梨」から始まった
{市川梨の起源}
千葉県の梨栽培の産みの親とも言える川上善六は市川市八幡に(字を猛慶と号し、寛保2年(1742年)1月3日に生まれ、文政12年(1829年)5月9日87歳の高齢で亡くなられております。)生まれました。
川上善六は幼児より書を好み、学識に富んでいたので農業の傍ら、手習師匠もしていたというから、当時の知識人だったのでしょう。特に殖産興業に熱心で、八幡地方が砂地であるところから、どんな作物が適するかを探していたようです。諸国漫遊を試み、たまたま美濃の国大垣辺りで梨栽培を見て関心を高めたようです。ここの土質が八幡地方に似ていることから、梨栽培が八幡でも出来るのだろうかと思い、その枝をもらい受け、旅の道中に枯れないようにと大根に挿して持ち帰り、今の八幡神社の付近に接木苗を植えたそうです。
接穂はうまく活着して3年後に結実しました。その梨を美濃梨と名づけて江戸神田の青果物問屋に持参して好評を得ました。その頃八幡村は蔬菜栽培が中心でしたが、収入が良い物ではなかったのでたので、江戸の評判を聞いた村人は先を争って梨の樹を探して梨畑を作ることに専念したようです。その為、享和の頃には梨畑もだいぶ増え、神田市場への出荷も増えていったようです。

この梨は非常に高価なので神田市場の店頭では毛氈を敷いて梨果が痛まないようにしたといわれています。文化の頃になると青果問屋の遠州屋長三郎が八幡梨を一手に売り捌くことにし、幕府の御用達や諸侯にも納入したので名声は挙がる一方だったといわれています。そして、現在も市川梨として東京市場において一番銘柄として、プライスリ−ダ−として全国の梨を牽引しています。これが市川梨の起源とされています。
この市川の中に、さらに梨栽培に適した気候風土に恵まれた大町という地域があります。ここは、肥沃に富んだ土壌に恵まれており、地下水が低い為に美味しい梨を産出することが出来るのです。ただ、水分供給が難しい為に大きい梨を作るのに苦労しているようです。そこには、国道464号(大町梨街道)沿いに68軒の梨栽培農家集落があり、日本でも特異な地域とされています。この大町梨街道に面したところにバイオ梨で知られる「梨の角右ェ門梨園」があります。
梨の栄養について
| |
エネルギー kcal |
43 |
| 一般成分 |
水分 g |
88 |
| たんぱく質 g |
0.3 |
| 脂質 g |
0.1 |
| 炭水化物 g |
11.3 |
| 灰分 g |
0.3 |
| 無機質 |
ナトリウム mg |
0 |
| カリウム mg |
140 |
| カルシウム mg |
2 |
| マグネシウム mg |
5 |
| リン mg |
11 |
| 鉄 mg |
0 |
| 亜鉛 mg |
0.1 |
| 銅 mg |
0.06 |
| マンガン mg |
0.04 |
| ビタミン |
(ビタミンA) レチノール μg |
0 |
| (ビタミンA) カロテン μg |
0 |
| (ビタミンA) レチノール相当量 μg |
0 |
| D μg |
0. |
| E mg |
0.1 |
| K μg |
0 |
| B1 mg |
0.02 |
| B2 mg |
0.00 |
| ナイアシン mg |
0.2 |
| B6 mg |
0.02 |
| B12 μg |
0.0 |
| 葉酸 μg |
6 |
| パントテン酸 |
0.14 |
| C mg |
3 |
| 脂肪酸 |
飽和 g |
0.00 |
| 一価 g |
0.00 |
| 多価 g |
0.00 |
| |
コレステロール mg |
0 |
| 食物繊維 |
水溶性 g |
0.2 |
| 不溶性 g |
0.7 |
| 総量 g |
0.9 |
| |
食塩相当量 g |
0.0 |
| |
廃棄率 % |
15 |
科学技術庁: 五訂日本食品標準成分表より抜粋